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韓国で現代版埋蔵金発掘騒動
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韓国から“現代版”埋蔵金のニュースが伝えられた。それは、時事通信社が1月6日付で報じた情報で、なんでも朝鮮戦争のさなか避難する必要があった一家が、資産保全を図るためお寺の敷地内に金塊に変えた資産を埋めた、というもの。
今日でも戦争などの一大有事の際には、価値の無くならない金の存在と、埋蔵という手段が有効なことを示した一例なのでは。
※以下引用※
【ソウル時事】韓国南部・大邱市にある桐華寺の裏庭に埋められた金塊を探すために北朝鮮を脱出した男性(40)が話題を集めている。裏庭の地下では金属反応が出ており、南北をまたいだ宝探しは熱を帯びている。
6日付の韓国紙・中央日報などによると、男性は北朝鮮で養父から金塊の話を聞いた。養父の両親は、1950年に始まった朝鮮戦争でソウルから大邱に避難。裕福だった両親はこの際、家などを処分して購入した金塊40キロ(時価約1億6000万円)を桐華寺の裏庭に埋めた。
その後、一家は北朝鮮に渡り、両親は男性の養父に金塊を埋めた場所を説明、「韓国に行ったら必ず探せ」と言い聞かせた。北朝鮮で健在の養父は、男性に金塊の発掘を委任したという。
男性は2008年12月に韓国に亡命。生活基盤が整った昨年初めから桐華寺に通い、発掘を認めるよう要請を続けている。昨年末に、専門家が金属探知機で裏庭を調べたところ、深さ1.2メートルのところに電線などとは違う金属反応が出た。
桐華寺の建物は「宝物」に指定されている。発掘には文化財庁の許可が必要な上、金塊が出たとしても所有者をどう確定させるのか、寺側は当惑気味。男性側は発掘が認められない場合、訴訟も辞さない構えだ。
[時事通信社]
※ここまで引用※
埋蔵を行う際のポイントとして、永年にわたって位置が変わらず、万が一焼失等しても再建される可能性の高い寺社などを埋蔵場所の目安にするのは常識。ただ、このケースのように勝手に寺社の敷地内に埋蔵するのは、戦国時代の権力者でもない限り後々トラブルのもと。まあ、確かに“戦争時代”ではあったが…。
それはともかく、日本の法律に当てはめて考えると、一般的な埋蔵金では遺失物法が適用されるが、このケースの場合は、埋めたという人物が特定でき、また「物や金を落としたり、置き忘れたりしてなくすこと」という遺失物の定義にはまったく当てはまらない。
勝手に他人の所有地に埋めた行為の是非は問われるだろうが、隠した場所や金額等、当事者しか知らない事実で所有権は確認できるだろうから、当然財宝は男性(の養父)の物と判断されるだろう。ニュースにもあるが、寺の建物は確かに「宝物」なのかもしれないが、裏庭がそれに含まれるかは微妙で、要は寺側の心証を損ねてしまった、ということなのでは。
となると裁判を起こすしかないが、養父が北朝鮮在住ということで、これまた問題を複雑にしてしまっている。発掘させてもらった場合、何割かを寺に寄進するとか、円満な解決方法で埋蔵金が陽の目を見ることを期待したい。
首都圏直下型大地震発生確率のアップや、はたまた国の財政破綻など伝えられる今日この頃、あなたの流動資産はどうされてます? 国が破綻したら紙くず同然になってしまう可能性の高い円など、さっさと見限って金地金に替えていらっしゃる方も多いのでは。でも、埋めるならくれぐれもご自分の土地に、です。
--2012年1月27日
豊臣秀吉の埋蔵金ポイント、多田銀山で坑道をロボット調査
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先月「石見銀山で坑道を再調査」というニュースをお知らせしたばかりだが、埋蔵金関連では本筋と言える「多田銀山で坑道調査」のニュースが入ってきた。
多田銀山と言えば、一般に「国内三大埋蔵金」と呼ばれるもののひとつ、豊臣秀吉の埋蔵金の舞台として有名だ。豊臣秀吉が亡くなる直前の慶長3年6月、自分の亡き後の豊臣家の安泰を図るため、多田銀山に4億5千万両の金銀を坑道のいずこへか埋めたというもの。
その多田銀山でロボット調査が開始されたという。
『秀吉の埋蔵金、伝説では4億両超 多田銀銅山に探査ロボ
豊臣秀吉が開発を進め、天下統一を経済的に支えたとされる「多田銀銅山」。大阪府と兵庫県にまたがって残る坑道の大半は落盤の危険があり、内部の調査はほとんど手つかずのままだった。兵庫県教委は23日から、探査ロボットを坑道の中に入れ、秀吉の埋蔵金伝説が残る「宝の山」の調査に乗り出す。
県教委によると、多田銀銅山は大阪府の池田市、箕面市、能勢町、豊能町と、兵庫県の川西市、宝塚市、猪名川町の計7市町を中心とした鉱脈の総称。2千の坑道があるとされる。
秀吉が天正年間に直轄鉱山として開発。江戸時代は「銀山三千軒(ぎんざんさんぜんけん)」と呼ばれ繁栄したが、次第に衰退し、日本鉱業多田鉱業所だった1973年に閉山した。
今回の調査は、新名神高速道路の橋脚建設に伴う調査で見つかった猪名川町の坑道が対象。坑道内の形の特徴を把握して年代を特定し、多田銀銅山の実態を調べるのが狙いだ。秀吉ゆかりの坑道「瓢箪間歩(ひょうたんまぶ)」や「台所間歩」の名が残る銀山地区の近くに位置する。
坑道は斜め上に向かう横穴。7月の事前調査では、入り口の高さ0.90メートル、幅0.6メートル、長さは約6メートルと確認した。奧に行くほど坑道の高さは低くなり、突き当たりの天井には鉱脈につながっている可能性のある立穴(たてあな)も見つかった。
23日からの調査で使うのは、松江工業高専の久間英樹教授が開発した長さ約60センチの探査ロボット。傾斜角などを測れる小型センサーとカメラがあり、坑道入り口から遠隔操作できる。
今回の調査に、埋蔵金伝説に関心を寄せる講談師の旭堂南海さんは「財政難にあえぐ自治体が、とうとう埋蔵金のロマンに手をつけるのか。兵庫県が大金持ちになれる瞬間が近づいたかも」と興奮気味に語る。
一方、県教委は伝説からは距離を置く。調査を担当する県立考古博物館(播磨町)の深井明比古課長は「多田銀銅山は長い歴史を持つ産業遺産。ロボットの力を借り、実態解明につなげたい」。今後も調査を続ける。
(日比野容子)
◇
〈豊臣秀吉の埋蔵金伝説〉 息子・秀頼の行く末を案じた秀吉が1598(慶長3)年6月、大坂城に残っていた朝鮮出兵の軍用金4億5千万両を多田銀銅山の21カ所の坑道に埋めた、と埋蔵を命じられた家臣の遺書などに記されていたとされる。現在なら兆円単位の価値だとする試算や、財力を誇張しただけとの見方もマニアの間にはあり、群馬県の徳川埋蔵金、茨城県の結城家埋蔵金と並んで「日本の三大埋蔵金」と称される。 』
--以上、asahi.com(朝日新聞社)webサイト 2011年8月22日より--
豊臣秀吉が亡くなったのは、慶長3年の8月。そのわずか2か月前、病に伏していた秀吉は、突然多田銀山の閉鎖を命じて多田銀山から一切の人を遠ざけた。“銀山ばらい”といわれた出来事だ。そして金山奉行の幡野三郎光照に命じて、無人となった銀山で死刑となる罪人を使い軍資金4億5千万両を坑道の10数ヵ所に分散して埋蔵をさせたという。
これらの埋蔵金は、政権を一次預けたはずの徳川家康から、成人した秀頼に政権委譲が成された時に掘り出して使われる予定だった。埋蔵の事実が知られることとなったのは、「清水心竜之巻」「幡野三郎光照遺書」などの秘文書と絵図の存在だ。
あくまで一時的な埋蔵で、時機到来ならば即役立てられるように、埋蔵場所や発掘の方法等がこれらの秘文書に詳細に記されていたという。
とくに最大の埋蔵ヵ所は盗掘されないように水没されており、そのための水抜きの方法なども記されていたのだという。この文書は“その時”が来るまで幡野家に秘匿されていたといわれている。だたもう一組、淀の方にも同じものが預けられていたというので、2通存在していたことになる。
これらの秘文書が、めぐりめぐって外部に知られることとなった。ただ秘文書が手に入ったからといって、すぐに埋蔵場所が分かるわけではなく、埋蔵の手引きとも言える八門遁甲法により解読をしなければまったく役に立たないように記されているという。
また一説によれば、埋蔵後、そのうちの二箇所はすでに掘り出されたという。初めて手を付けたのは、関ケ原の戦いの軍費として、もう一回は、大阪城落城後に、真田幸村の家臣、穴山小助が掘り出し、豊臣と繋がりのある薩摩島津家に届けられたという。こちらは秀頼の生存九州落ち延び説に繋がるのだが、そればまた別の機会に。
ちなみに多田銀山自体の開発は秀吉の時代よりもさらに古く、源満仲より発見されたという説がある。正式の記録として残るもっとも古いものは鎌倉時代で、能勢採銅所が設けられた1037年というのがある。その後も採掘は続けられていたが、秀吉の時代になって、唐から日本に渡ってきた帰化人から技術を習得。先進の採鉱法や精錬法を利用して増産させている。
ただ、あくまで多田銀山はその名の通り銅や銀鉱山であり、金を産出したわけではなかった。また、銀山としても同じ兵庫県の生野銀山ほどには産出量の多い銀山ではなかったので埋蔵には都合がよかったのだろう。
豊臣氏滅亡後は、徳川幕府によって運営が再開され、採掘が行われているので、その時まで坑道内に埋蔵されたままだとしたら発見された可能性は高いといえる。そして万が一発見されたとしても公表されることなく、そのまま徳川幕府の懐に入っているのではないだろうか。ちなみに半世紀後の寛文年間には徳川幕府の天領となって、年間で銀1,500貫(約5.6トン)、銅70万斤(約84トン)と秀吉の時代の数十倍もの産出量を記録しているので、坑道内のあらゆるところで探鉱がおこなわれたはず。いかに八門遁甲で隠されたとはいえ、発見されずに現在まで残っていると考えるのは難しいと思う…。
今回のニュースによれば、自走型のロボットによる探査のようで、あくまで坑道内の状態調査が主な目的。埋蔵金の探査とはまったく趣旨が違うので、万が一にも隠された埋蔵金を発見することはないはず。地中レーダー等の探査機器を搭載していなければ埋蔵金ばかりか新たな鉱床を発見するのも難しいだろう。
ただ、現在の坑道内の正確な状態を記録してくれるのはありがたいことで、詳細なデータが公開されることを期待したい。
--2011年8月30日
世界遺産登録の石見銀山で新たな坑道20カ所を発見!
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本サイトでも、かつて世界遺産登録が実現するかどうか、という時期に何回か取り上げさせていただいた石見銀山。無事めでたく世界遺産に登録されたのは皆様ご存じの通り。
その石見銀山にちょっと気になる動きが出ている。それは7月7日付けの毎日新聞が報じた以下のような内容なのだ。
『<石見銀山>「新たな坑道」計20カ所発見』
という見出しで、
『世界遺産・石見銀山遺跡(島根県大田市)の現地調査で、銀を採掘した坑道=間歩(まぶ)=とみられる穴が6月末までに計20カ所見つかったことが分かった。確認されれば、世界遺産登録後初の新たな坑道発見になる。
同遺跡では銀山中心部で583カ所の間歩が確認されている。島根県教委は今年度から中心部外側の調査を始め、15年度までに銀山全体の規模解明を目指す。
調査した同市石見銀山世界遺産センターの岩橋孝典・専門研究員は「いずれも人工的に掘った穴で間歩とみられる。5年間の調査でさらに多くの間歩が見つかる可能性が高い」と話している。
同遺跡は16~17世紀に最盛期を迎えた世界有数の銀山跡。毛利氏や徳川幕府の支配下で経済基盤を支え、大航海時代以降、世界に流通した銀の多くを産出した。07年に世界文化遺産に登録された。【鈴木健太郎】』
という内容の記事だ。
石見銀山といえば、太閤秀吉の埋蔵金が眠ると言われる兵庫県の多田銀山と並び、我が国の銀の産出を支えた一大銀鉱山。さすがに江戸時代まで管理された現役銀山だっただけに、派手な埋蔵金の話題こそ無いが、今でも全体像がつかめないほどの巨大な坑道をもつ“パワースポット”と言えるだろう。
ちなみに一方の多田銀山の方が、何故埋蔵金の舞台となったかといえば、、二度目の朝鮮出兵の後病に倒れた秀吉が、豊臣家の将来を案じて大阪城内の金蔵にあった四億五千万両を、この多田銀山に埋蔵したというのだ。そのために源氏の祖、多田満仲が開いたという由緒正しき歴史を持つ多田銀山を突然閉山してしまい、坑道の奥深くの“瓢箪間歩”に巨万の富を埋めたという。
現地で埋蔵作業の監督に当たったのが金山奉行、幡野三郎光照と帰化人技術者、今川賀蔵(民振竜)。埋蔵金の一部は大阪冬、夏の陣の時に持ち出され、消費されてしまったが、大半はそのまま残されたといわれる。
後に幡野の遺書などにより、埋蔵金の事実が知れ渡り、その額の多さと数々の「秘文書」の存在などにより、一躍注目の的となったというわけ。
八門遁甲によって隠された埋蔵金を説くカギとなる秘文書は「幡野三郎光照遺書」と、光照の子の「和田二郎光盛文書」、振竜の「水抜き秘法」そして、淀君に預けられた肝心の「清水心竜之巻」と絵図三葉という。
はてさて、石見銀山の“新発見”の坑道から何か出てくる可能性は無いのでしょうか? ご注目を。
--2011年7月8日
北海道弟子屈町で金鉱発見!
- 北海道は道東のほぼ中央部に位置する弟子屈町から金鉱発見のニュースが伝わってきた。
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釧路新聞が1月13日に掲載したもので、ゴールドラッシュの期待に地元弟子屈町が一躍わいているという。弟子屈町の奥春別という山林で鉱物調査を続けてきた“資源開発”という企業が、昨年、試掘した鉱石をカナダの研究機関に送って分析をしてもらっていた結果が出たのだが、なんと鉱石1トンあたり約30グラムの金含有量というという超優良鉱レベルの鉱石が含まれていたことが判明したという。
北海道といえば、さぞかし有名な金山が多いのでは思っていたが、ちょっと調べても意外と歴史に残っている金山はほとんど無い。砂金の話題がこれほど多いのに、その元である金山が“空白地帯”なのは不思議でもあるが、まあこちらは鉱山に関してはどシロートなので見当違いなのかもしれないが。
それはともかく、北海道といえば、北海道の石狩で生まれた畠山清行氏の「日本の埋蔵金」の中の北海道の話は面白い。『蝦夷松前の埋宝』だ。明治維新前、アイヌの遺した黄金にまつわる探索話なのだが、こういった話からも北海道が金に彩られた地であったことが良く分かる。ただそれは川から取れた砂金がメインで、金山、金鉱からの金ではないのだ。
意外や意外、北海道にはまだまだ発見されていない金鉱が驚くほどあるのだろうか。気になるニュースでした。
--2011年1月27日
埋蔵文化財の発掘にかかわる資格の話
- ちょっと気になることがあって発掘にかかわる人間の“資格”について、調べてみました。
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なにも“猫ばば”体質の人は仲間に入れない方が良い、とか映画の世界のような下世話な“資質”の話じゃあない。現在、日本国内で実際に行われている発掘調査では、どんな資格が通用しているのだろうか、ということです。
まず『埋蔵文化財調査士』というのがよく聞かれる資格名でした。
こちらは日本文化財保護協会という団体が検定試験を行って発給しているもので、毎年度試験が実施されるようになってます。受験資格としては(1)“埋蔵文化財調査士補”の資格を取得後、3年以上の発掘調査実務経験を有し、調査報告書を3冊以上または研究論文等2編以上執筆している者、(2)国及び地方公共団体(埋文センターなどを含む)で発掘調査の実施、指導、監督などを行う埋蔵文化財行政に20年以上携わったことのある者、ということで、以上の受験資格を元に筆記試験と面接試験の成否で判断が行われてます。
では、その“埋蔵文化財調査士補”なるものは? というと、(1)学校教育法による大学を卒業し、協会が認める関連分野を専攻した者で、発掘調査実務経験を4年以上(48ヵ月以上)有する者、(2)学校教育法による大学を卒業した者で、発掘調査実務経験を5年以上有する者、(3)前2項以外の者で、8年以上の発掘調査実務経験を有する者、と3通りの受験条件があり、こちらは3日間程度の講習と筆記試験が行われる。
ちなみにこの資格を発給する日本文化財保護協会というのは、埋蔵文化財の発掘調査、歴史的建造物や出土品などの化学分析、修復、復元、保存などの業務に携わっている民間機関が集まった公益社団法人。2005年に民間の任意団体として設立され、2009年には社団法人化されています。
WEBサイトで見ると(2010年7月21日現在)、241名の埋蔵文化財調査士がリストアップされ、調査士補は136名となっています。わずかというか、こんなにというか、微妙な人数です。
で、実際に発掘調査にあたっている民間事業者の集まりだけあって(同、76社が参加している)、その意味では学術的な資格というよりは、現場の作業をコントロールできる能力を裏付ける資格で、文化遺産保護行政を実際の現場で支える人間に与えられる資格といえそう。
※
そしてもう一つの有力な資格が早稲田大学などの音頭取りでつい最近スタートした『考古調査士』でした。
こちらは、“考古調査士資格認定機構”という団体が発給する資格で、加盟する全国の大学・研究機関に共通の統一的な資格審査・授与を行う組織、と説明されている。具体的には、大学等で埋蔵文化財調査を学ぶ“将来の専門家”たちに対して、正確で正しい発掘調査の技術や知識を勉学した証として与えられる資格です。
現在、早稲田大学など7大学等が加盟しており、考古学調査士をめざす人に向けた専門教育が行なわれている。つまりこちらの資格はよりアカデミックな部分での資格といえる。
資格を取得するための特別な試験とか面接があるわけではなく、加盟大学で埋蔵文化財に関連する単位の修得によって判断され、必要単位を修得した申請者の中から考古調査士資格認定機構により適否が判断されるという。
一般社会人でも履修さえ行えば大学生と同様に申請資格が得られる“社会人課程”というのも用意されており、こちらは大学等研究・教育機関に設置された“社会人課程”の履修条件に従い、キャリアアップ・コース、リカレント・コース、マネジメント・コースの3コースのいずれかのプログラムを終了すればそれぞれの申請資格が得られるという。
ちなみにこれらの申請資格は順に「2級考古調査士」「1級考古調査士」「上級考古調査士」と3段階の資格への条件となっており、2級は大学の学部コースと同等、1級は大学院コースと同等のレベルとなっているという。
考古調査資格認定機構はあくまで民間団体で、機構の運営委員会の顔ぶれもほとんど大学の教授や名誉教授が占めていることからも性格が分かろうというもの。
ちなみに文化庁が2009年3月に出した「埋蔵文化財保護行政における資格のあり方について(中間まとめ)」によれば、1994年に設置された“埋蔵文化財発掘調査体制等の整備充実に関する調査研究委員会”から「記録保存調査委において民間調査組織の導入を図る場合の発掘担当者の見極めに資格は有効で、引き続き検討が必要である」との指摘があり、それを元にここ数年で生まれた資格だったわけです。
一方は発掘現場の企業団体から、もう一方は研究を行う学術畑のアプローチから、と異なった性格の2つ組織の資格が生まれました。
このように発掘に関連する資格はこの数年で初めて誕生したのでした。ちょっと驚きでしたね。それまではあくまで“経験”がすべての世界だったのでしょうか。
新たにスタートした埋蔵文化財の発掘に関連する資格の話題でした。
--2010年7月21日
大和市教育委員会が“埋蔵金”本を発行!?
- お堅いイメージのお役所が“埋蔵金”本を発行!? そんな気になる話題が伝わってきた。
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神奈川県の大和市が6月1日、大和民話・伝説シリーズの最新刊として『浅間神社と義経の財宝』を発行したという。なにやらとても面白そうな刊行物と思いきや、やはり“埋蔵金”本って訳ではありませんでしたのでご安心を…。実はこの『浅間神社と義経の財宝』は「地域の民話や伝説を少しでも多くの人に知ってもらおうと、市内の伝説などを絵本にした大和民話・伝説シリーズの最新作」(大和市WEBサイトより)だったのだ。
そう絵本なのでした。ただ絵本といっても「壇ノ浦の戦いで平氏を破った義経が、勝利の報告をしようと鎌倉に向かったが、兄頼朝に鎌倉に入ることを許してもらえず、京の都に帰る道中に浅間神社に立ち寄り、頼朝に渡す予定であった献上品を埋めたという伝承を題材に作成。また、同絵本には財宝伝説のほかに、鶴間という地名の起源についても語られている」(同WEBサイトより)とさすがお役所、かなりキチンとした内容の作りになっている。
A4変型判(縦29.7×横16.5cm)の32ページ。千部発行。興味のある方は大和市役所の文化振興課窓口、または、つる舞の里歴史資料館、郷土民家園、下鶴間ふるさと館などで、500円で販売しているというのでご参考までに。
トロイの遺跡を発見したハインリッヒ・シュリーマンの逸話じゃないが、子供たちには夢を持って欲しいもの。世間のお母さんたち、公の機関が発行した絵本なので安心して子供たちに読ませていただいてはいかがでしょうか。大きくなったら埋蔵金を発見して親孝行してくれるかもしれませんよ!?
--2009年6月6日
深溝松平家当主の墓から小判43枚、一分金117枚ほか発掘
- 埋蔵金発掘のニュースではないが、愛知県の深溝(ふこうず)松平家の第7代当主だった松平忠雄の墓所から、
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小判43枚、一分金117枚他が発見されたというニュースが入っている。いわゆる“副葬品”というものだ。
出土したのは額田郡幸田町深溝の本光寺で、発掘にあたった本光寺深溝松平家東御廟所調査会が5月14日に発表した資料によれば、慶長小判など小判が43枚、享保、正徳などの一分金が117枚、それに飾り太刀が一振り、太刀二振り、石帯一本、手鏡一面、眼鏡一個、金属椀一客。さらには西洋グラス一客、蒔絵印籠六セット、蒔絵化粧道具箱一式、香道具一式、煙草道具、陶磁器二客、銀製ポットなど文化財として貴重な品々も出てきたという。
本光寺は、深溝松平家初代から19代までの当主の菩提寺となっている。今回発掘されたのはその深溝松平家の7代目の当主で島原藩の藩主も務めた松平忠雄(1673~1736)の墓所。2008年8月末の豪雨で忠雄の墓石が傾き、2009年3月から修復へ向けて事前調査を行っていたという。
墓所は地下約3.5メートルに掘られた石室があり、その中に木棺を収め、墓誌が刻まれた平石で蓋をされていたという。石室の広さは約1.5メートル四方、深さ1.3メートルほど。小判や一分金はこのうちの木棺の中から、そして木棺の周りにグラスなどの様々な品が埋葬されていた。ちなみに副葬品として小判など金貨が確認された例では、盛岡の南部家の墓所からの12枚、仙台の伊達家の墓所からの10枚というこれまでの記録を抜いて過去最高なのだとか。三途の川の渡り賃なら六文銭で充分だが、大名ともなれば…海外の墓荒らしの横行が莫大な副葬品にあったことを考えると、意外に少ない気もする。日本人の埋葬に対する意識の調査にも役立ちそう。
--2009年5月15日
ユネスコ「水中文化遺産保護条約」が発効!
- 当WEBサイトのテリトリー外になるが、ちょっと気になる話題をご紹介しよう。
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見られた方も多いと思うが、この1月17日に放映されたTV番組「世界一受けたい授業」(関東地方では日テレ、午後7時56分~)の“2時限目”で、井上たかひこ先生が『海の中に10兆円!? アナタの知らない世界の財宝マップ』といういう授業をやっていた。
まあ、わずか20分足らずの短い時間で沈没船の財宝にまつわるあれこれから紹介していたので、ほとんど目新しい内容は無かったのだが、唯一、井上先生のプロジェクト・チームがどうやら江戸時代の黒船“ハーマン号”を見つけた、らしいというのが収穫だった。現場から引き上げたという食器や船釘、石炭などを持参していた。
引き上げが成功する可能性は高そうだが、残念ながら「発見場所は教えられません(荒らされるおそれがあるので)」、「まだ見つけられてませんが、“お宝”は推定で約20~30億円になると思います」などのコメントには少なからずがっかりした。
よくある「宝を発見した! でも資金がないからまだ発掘できてません」と同じように聞こえてしまった、というのは意地悪すぎるだろうか。せめて船名の入ったプレートとか、蛇輪など、船を特定できる証拠の品を発見してから公表することは出来なかったのだろうか、と思ってしまう。
それはともかく、このように、沈没船、そして沈没船の財宝というのは確実に存在する。他人の目から隠すために策を弄したり、欺いたりする“埋蔵金”などとはまったく性格が違うことがお分かりいただけるだろうか。当WEBサイトが“テリトリー外”とする理由もそこにある。
で、ここからが本題だ。それは、こういった沈没船の財宝などに関して、初の国際的な取り決めとなる「水中文化遺産保護条約」が発効したというニュースなのだ。ユネスコの活動により、いよいよこの1月からスタートできたという。
世界一受けたい授業の中でも触れられていた“世界一の沈没船の財宝”は広東省沖で発見され、しかも中国の貿易船らしいので問題にならなかったようだが、これがポルトガルなど、外国の船舶だった場合は所有権を巡って争いになるのは必定。ましてや無秩序に引き上げ作業を行えば、貴重な文化財といえる陶器などは破壊されかねなかったといえる。また、船体そのものからして人類の貴重な遺産なのだが、商業的な引き上げではそんなこと言ってられないだろうことは想像に難くない。
このように破壊の危機にさらされている海中や水中の水没文化財を守るために作られたのが、今回の「水中文化遺産保護条約」なのだ。
ただ、簡単にできあがったわけではなく、条約の草案がユネスコで採択されたのはなんと8年も前の2001年11月。それなのに今日まで発効できなかったのは、必要とされた最低20ヵ国の批准が得られなかったためという。
ちなみに批准に二の足を踏む理由は、「水中文化遺産保護条約」自体の内容にある。
条約では、水中文化遺産を「少なくとも100年の間、連続的にまたは周期的に、部分的または完全に水中にある文化的、歴史的、または考古学的性質を有する人類の存在のあらゆる軌跡」と定義している。そしてこれら水中文化遺産は、商業目的に利用されてはならないとされているのだ。そして国連海洋法条約にしたがって、国の領海外に設定されはじめている排他的経済水域や、深海底などにも保護措置が講じられるという。現在の海洋は利害対立の最前線。それにかかわる可能性の高い条約には、と二の足を踏む、というわけだ。
それでも曲がりなりにも発効にこぎ着けられたのは、ウクライナ、エクアドル、カンボジア、キューバ、クロアチア、スペイン、スロベニア、セントルシア、ナイジェリア、パナマ、パラグアイ、バルバドス、ブルガリア、ポルトガル、メキシコ、モンテネグロ、リトアニア、リビア、ルーマニア、レバノンの計20ヵ国の理解、批准があったから。これをみると分かるとおり大国がほとんど批准していない。日本も未だ批准していないのだ。
ま、そこら辺の問題はともかく、今年、2009年は歴史上初めて世界基準の水中文化遺産保護の仕組みが出来た記念すべき年、として記憶されることだけは覚えておいていただきたい。
--2009年1月26日
あの、天下の朝日新聞が埋蔵金を取り上げた!
- ちょっと埋蔵金のニュースから外れてしまうが、気になる記事が
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2008年12月23日付けの朝日新聞朝刊で『穴を掘ったら小判や金貨、もしあなたが見つけたら… 「埋蔵金」悲喜こもごも』というタイトルで、誌面の約8分の1を割いてちょっとした特集として掲載したのだ。
ちなみにこのページ、生活面の“わが家のミカタ”という連載記事の“歳末スペシャル”として取り上げている。内容に関しては著作権があるので引用は差し控えるが、要は2008年の流行語にもなった“埋蔵金”がらみで、本物の埋蔵金の知識を取り上げてみた、というわけ。
さすがに朝日新聞だけあって、埋蔵金に関する一通りのことは分かるように誌面を構成しているのはさすが。まあ、ネタ元は取材されている八重野充弘さんによるところが大なのは容易に想像が付くが、これだけのスペースでよくまとめてくれた記者にも拍手を送りたい。それなりにきちんとまとまっているので、見ていない方は、お近くの図書館へ。朝日新聞のバックナンバーならほとんど必ず用意されていると思うのでご一見を。
それにしても日本丸の舵取りをしなくてはならない政治家からして霞ヶ関の“埋蔵金”頼みでは、この国の行く末はいったいどうなってしまうんでしょう。この記事のように“庶民”のささやかな“夢”として取り上げている分には大いに結構、なのですが…。
--2008年12月24日
中国で時価34兆円の沈没船を引き揚げ!
- 埋蔵金とはちょっと趣旨が異なりますが、またまた沈没船引き揚げのニュースを。
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中国沿岸の南シナ海で、時価にしてなんと34兆円もの文化財を積んだ800年前の沈没船が引き揚げられたという。ちょっと巨額すぎてピンとこないかもしれないが、我が国の埋蔵金の代表ともいえる徳川埋蔵金など、発見されれば軽く兆の額にのぼるといわれる埋蔵金の例が多いのはご存じのはず。
ま、現実的な比較をすれば、平成20年度から10年間の道路整備費が約60兆円というから、その約半分、5年分がまかなえてしまえるという計算になる。あまり良い比較ではなかったですか? ならば、(ニュース記事に対抗して)我が国の2008年度予算が約83兆円ですからそれの半分よりはちょっと少ない…ま、それはともかく沈没船の引き上げは、埋蔵金探しよりはよほど効率の良い“事業”であることだけは確かでしょう。
国内では一番大々的に報道していたスポーツニッポンの記事で概要を紹介しておきます。もともとは新華社通信の配信みたいで、中国系のWEBサイトではまさに“蜂の巣をつついた騒ぎ”になっていたことも付け加えておきます。しばらくは検索をかければ続々と引っかかるはずです(中国語が読めれば…の話ですが)。
--2007年12月23日付けスポーツニッポン紙より--
中国で引き揚げ
34兆円宝船
800年前沈没 文化財8万点眠る!?
広東省陽江市沖
中国広東州陽江市沖の南シナ海で22日、約800年前に沈没した貿易商船が引き提げられた。船内からは既に金ぱくを張った腕輪や、陶磁器など約1万点以上が見つかっている。船内には約8万点の“お宝”が残っている可能性もあり、研究者も「文化財の価値は3000億ドル(約34兆円)」と試算。歴史的発見に鼻息を荒くしている。
約800年の眠りから目覚めたのは、南宋(1127~1279年)時代に沈没した貿易商船「南海1号」。破損防止のため水中で船全体をコンテナに収め、巨大なクレーンでつり上げる「世界初」(中国当局)の方式を採用。総重量約3400キロのコンテナが海面にまで引き揚げられると、作業を見守っていた関係者らは大きな拍手で出迎え、爆竹を鳴らして成功を祝った。
調査チームが行った事前の潜水調査では、船内から金ぱくを張った腕輪やベルトといった当時の装飾品や、景徳鎮(けいとくちん)の陶磁器など1万点以上が発見されており、調査に当たっている広東省考古学研究所は「船内には財宝などの文化財6万~8万点が残っている可能性がある」と指摘した。
費用は46億円超
文化財の価値は総額3000億ドル(約34兆2500億円)に上るとの試算も。この額は韓国の来年度の国家予算(31兆9000億円)を軽く上回る金額で、中国メディアによると政府は、このプロジェクトに3億元(約46億4000万円)を投入。発見された品々がいかに貴重であることがうかがえる。
共同通信によると南海1号は1987年、広東省広州当局と英国の海洋調査会社が陽江市の沖合で別の沈没船の調査中に偶然、発見された。同省考古学研究所などによれば船長約30.5メートル、幅9.3メートルで宋代としては最大規模。沖合約20カイリ(約37キロ)、水深約20メートル付近の海底でほぼ原型を保ったまま沈んでおり宝の保存状態も良好だという。
--以上スポーツニッポン11版社会面から--
中国系のサイトには写真を載せているところも多いので、それらを見ていただくと分かるが、まさに船ごとそっくりコンテナに入れて引き揚げを行っている。それだけ沈没船の状態が良かったと言うことなのだろう。海底でほぼ船のままの形状を保っていたらしい。で、来年からは同市に建設中の「海のシルクロード博物館」で一般公開するとこのとなので、時間と懐具合の良い方は是非中国まで見学ツアーにお出かけください。貴重な体験になることでしょう。
沈没船や魑魅魍魎の棲む“永田町の埋蔵金”などじゃなくて、本物の埋蔵金発見のニュースをたまには載せてみたいものですね。
--2007年12月26日
二転三転の末、石見銀山が世界遺産登録
- まさに二転三転、まあ、結果は世界遺産に無事登録されたのだから良しとしよう。
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石見銀山の世界遺産登録騒動だ。当サイトでもとっかかりで紹介した以上、その三転した結末をご紹介しておこう(それにしても三回も取り上げることになるとは思わなかったが…)。
ユネスコが指定する世界遺産に登録されるには、世界21ヵ国の代表で構成される“世界遺産委員会”で審議され「これは世界に誇れるものだ」とのお墨付きを得なければならない。で、その“世界遺産委員会”は自分たちで調査するわけではなく、ユネスコの諮問機関である“国際記念物遺跡会議”(これがイコモス「International Council on Monument and Sites」略して“ICOMOS”と呼ばれる組織だ)に丸投げして、ここでの判断が実質的に遺跡指定の可否を決定づけることになっている。
で、いったんは石見銀山の世界遺産登録に“延期”の判断をイコモスに下されてしまったため、“二転”したというのが前回の報告内容だった。
その後、何があったのか? 本当のところは一部の当事者のみ知る、だが、それまで世界遺産登録を強力にバックアップしてきた政府関係者の“根回し”が功を奏したというのが事実のようだ。世界遺産委員会のメンバー国代表に対して積極的なアピールと説明を行い、特に石見銀山が稼働当時から植林を行うなど「環境に配慮した類い希な産業遺跡」という点を評価してもらったらしい。
で、めでたくこの6月28日、“石見銀山遺跡”が国内14件目の世界遺産(文化遺産では11件目、他に自然遺産が3件)に登録決定したというわけ。とりあえず世界遺産登録おめでとうございます。
--2007年7月1日
英国南西約60キロの大西洋で“史上最高額”の沈船財宝を発見
- '97年7月31日付けの朝日新聞夕刊に、気になる記事が載っていたので紹介しよう。
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一部スポーツ紙やWEBニュース等で紹介されていたのでご存じの方も多いかと思うが、米国の企業が英国南西約60キロの大西洋で“史上最高額”と思われる財宝を発見したという。情報の発信元はどうやらAFP通信のようだが、各紙やWEBサイトが伝えたニュースの概要はおおむね次の通り。
『米国フロリダ州タンパの海洋探査を専門とする“Odyssey Marine Exploration”という企業が、17世紀の難破船と推定される沈没船の残骸から、数100枚の金貨を始め約17トン(約50万枚)にも上る銀貨などを発見した』。
沈船の財宝に関しては当サイトのテリトリー外で、一門外漢にすぎないが(埋蔵金と沈船の財宝の根本的な違いは当NEWSのコーナー等でもたびたび言及しているのでご参考に)、やれ「お宝発見!」とか「史上最高額の財宝!」などと一部で話題になっているので取り上げておこう。
で、さらに各ニュースによれば『この沈船の財宝が伝えられたとおりであれば、1985年にフロリダ沖(こちらの地域はまさに沈船サルベージの名所)で1622年に沈没したスペイン船から回収された財宝約4億ドルを抜いて約5億ドル(約600億円)にのぼり“史上最高”の記録となる』とか。
ニュースでは以上が情報の全てのようなので、本家本元、その海洋探査企業“Odyssey Marine Exploration”社のWEBサイトを覗いてみた。“Odyssey Marine Exploration”社は1994年に創立され、今回のような沈船の財宝等のサルベージを主に行い、アメリカの証券取引所にも上場されている注目企業でもあった。
WEBサイトのトップページに今回の発見のニュースを伝えるトピックスがのっており、さらに彼らが“Black Swan”とコードネームを付けた今回の沈船に関するページに飛ぶと、そこで紹介されいたのが、まさにAFPが発信元と思われるニュースとほぼ同じ内容のさらに詳しい紹介記事が載っていた。
『ODYSSEY'S LATEST SHIPWRECK FIND YIELDS OVER 500,000 SILVER AND GOLD COINS
World's Largest Historical Shipwreck Coin Recovery Produces Record 17 Tons of Silver Currency』
(“Odyssey Marine Exploration”社のWEBサイトより)
--の見出しで、
『フロリダ州タンパにある海洋探査専門企業“オデッセイ社”は、この分野のリーダー的存在で、今回、大西洋の詳細が公表されていないある現場で“ブラックスワン”と名付けた“コロニアル期”の沈船を特定、考古学的な調査と予備の発掘を終了した。この現場からは17トン以上の重さがある50万個以上の銀貨、何100個かの金貨、加工された金塊などが発見された。これらの財宝はサルベージ関連法や海洋法に則って回収されたもので、いかなる国からも主権が及ばないものと信じています』(概要)。
巷をめぐったニュースでは“財宝発見”の面ばかりが取り上げられてしまっているが、沈船の発見は財宝ばかりでなく、難破した時代を甦らせる様々な遺構や情報が得られるタイムカプセル的な意味合いも大きいことを付け加えておこう。
『「私たちの研究では、この現場が“コロニアル期”に多くの船が難破した地域であり、この地域の状況を徹底的に分析し、記録を残すことに意義があると考え慎重に作業を進めています」(同社の創業者の一人ジョン・モリス氏)』。
テリトリー外の話題ではありましたがご参考までに。“Odyssey Marine Exploration”社のWEBサイトへのリンクは張りませんので、ご自分で検索を(当ベージの一番下にGoogleの検索窓がありますので、そこに社名を入れれば簡単にたどり着けるはずです)。
--2007年5月24日
「石見銀山の世界遺産登録」に暗雲
- 先日お伝えした「石見銀山が世界遺産登録へ」のニュース。
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どうも風向きが怪しくなってしまったようだ。すでにマスコミでも報道しているのでご存じだろう。推薦していた文化庁から発表があり、世界遺産に登録するかどうか、を検討していた(実質、決定権を握っているといわれる)“イコモス”というところが石見銀山の登録に難色を示しているのだとか。まあ、世界中思いがけないところでも“世界遺産”に出くわす現在の状況からすれば、今後“お墨付き”はなるべく控えたい、ということなのだろう。
ちなみにこの“イコモス”というのは「International Council on Monument and Sites」略して“ICOMOS”。国際的な非政府組織でユネスコの諮問機関を努めている団体だ。別に世界に誇れる遺産と認めてくれなくてもかまわないんじゃない、と門外漢は単純に思ってしまうが、地元にしてみれば“お墨付き”があるか無いかで観光資源のランクは雲泥の差。
変に観光地化しない方が“研究者”としては当然好ましいのは言うまでもないが、地元の方々のこれまでのご苦労を考えると、何とか登録させてあげられないのでしょうか。
とりあえず、「石見銀山世界遺産登録へ」のその後の経過報告でした。
--2007年5月15日
多田銀山の下調べに!? “銀山ネタ”のニュースです。
- 埋蔵金探索者にとっては銀山といえば“多田銀山”につきるのだろうが、
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西国で一二を争った我が国有数の銀山だった“石見銀山”のニュースをお伝えしよう。
このところ、この石見銀山の話題をあちらこちらで耳にすることが多い。というのも実は訳があって、その理由は、島根県が県を挙げて石見銀山を世界遺産に登録しようという運動がいよいよ佳境にさしかかっているからなのだ。このまま順調にいけば今年の7月には実現するのだとか。
すでに世界遺産登録へ向けてラストスパートというところで、そこら辺の事情は、島根県による詳細な説明が載せられたWebサイトが出来上がっているのでそちらを見ていただければ一目瞭然だ(ちなみにこのページの一番下の検索窓に“石見銀山”“世界遺産登録”のキーワードを入れて検索をかけていただければすぐにたどり着けるはず。「Internetから検索」の方にボタンを切り替えるのをお忘れなく。2007年3月2日現在)。
で、関連の最新ニュースとして、その石見銀山へ“何か埋蔵金ネタはないかな?”と調査(それとも単に銀山見物!?)に出かけようと思っている方には好都合というか、面倒くさくなるというか、実際に現地に出かけてみなければ何とも言えないニュースなのだが…。島根県大田市ではこの4月16日から、世界遺産登録を検討している“保存地区内”では一般車両の乗り入れを禁止して、指定の駐車場に駐車させ、そこからは専用の送迎システムをりようしてもらう、といういわゆる“パーク&ライド”システムを取り入れるという。
地元大田市が新たに250台受け入れ可能な“第3駐車場”などを設置、保存地区内の観光センターや銀山公園駐車場などは、住民や地元事業者のみの利用とし、一切観光目的の車両を閉め出すという。ちなみにすでにこの“パーク&ライド”は昨年の連休に3回試験的に行われて問題点等を検討済みなのだとか。
3月1日付けの毎日新聞のニュースでは、
『--前略--保存地区南約3キロの同公園の既存駐車場を乗用車104台とバス11台が駐車できるよう再整備しており、敷地内に第2駐車場(28台)も整備中。さらに、同公園から約300メートル東の県道沿いに、民間企業から借地し約250台の駐車場を新設、計400台を収容可能にする。
同公園から保存地区に向かう路線バスは、1区間200円の川本線(5便)と大森大家線(8便)を組み合わせ、大型連休中は割安になる1日券の発売も検討。観光目的の車両には、平日は看板で注意を促し、混雑するゴールデンウイークや4~11月の土日と祝日は警備員や市職員、地元ボランティアらが誘導する。--後略--』
ちなみに一番気になる利用料金に触れてないので、実際に調査に出かけようと思っている方は事前に現地へお問い合わせを。また、石見銀山の世界遺産登録関連の情報は、“島根県教育庁文化財課世界遺産登録推進室”まで(これまた勝手に電話番号等を書けいないのでキーワードにて検索を)。
銀山だけなら興味ない、などといわずに多田銀山探索の“下調べ”として石見銀山に出かけてみてはいかがでしょうか。さすがに世界遺産登録を目指しているだけあって、力の入ったWebサイトを眺めているだけでも当時の銀山の概要が良く分かるなど、得るところは多いはず、のニュースでありました。
--2007年3月2日
水野氏の徳川埋蔵金探索がドキュメンタリー映画に!
- 我が国の埋蔵金を代表する赤城の“徳川埋蔵金”。
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埋蔵されていると予想される額の多さ(一説に360万両)もさることながら、三代に渡ってその埋蔵金を探し続けている人間がいるという事実の重みに圧倒される方も多いのでは。
で、なんとこの赤城の埋蔵金探索の一部始終を映像に収めた作品が完成、公開された。“エンターテインメント・ドキュメンタリー作品”というジャンルになるそうなのだが、タイトル名は『あたえられるか否か~徳川埋蔵金120年目の挑戦~』(2006年カラー作品/ドキュメンタリー/82分/VIDEO)。出演は、赤城の埋蔵金探索にあたっている三代目、水野智之さん。そして埋蔵金探索に協力する方々など。撮影、編集、監督を努めたのはなんと3年間にわたり水野さんに密着して記録したという安部一世さん。プロデューサーは宮本高志さん。音楽が「HiT ThaT Jive!」。配給はワイヤーワークス。公式Webサイトhttp://wireworks.jp/maizokin/。
で、この映画が公開されたのは情報発信地、東京渋谷でも特に“とんがっている”ことでおなじみ、“多様性=diversity”をコンセプトとするUPlinkギャラリーの中にあるUPlink Xと、大阪ではシネ・ヌーヴォXにて。
**********以下公式Webサイトより転載**********
■作品概要
徳川幕府の末期、時の大老 井伊直弼の命により群馬県赤城山中に埋められたといわれる御用金360万両。明治16年以来、祖父子三代120年に渡りこれを探索し続けている水野家。15年ほど前、TBS「ギミア・ブレイク」で放送され、大反響を呼んだことで記憶されている人も多いのではないでしょうか。
本作品は、現在の水野家当主、水野智之の埋蔵金発掘事業を、監督自身が(水野氏の家業の看板制作を手伝いながら)赤城山に住み込み、3年にわたり撮り続けたドキュメンタリー作品です。
物語は、水野氏が「全ての謎は解けた」という発掘ポイントを指し示すところから始まります。強烈な個性を持つ水野氏の埋蔵金発掘事業を軸に、祖父子3代の発掘の歴史、一攫千金を夢見て赤城山にやってくる人々、水野氏の仲間が集い、紆余曲折を経て開始する10年越しの発掘…と物語は進行していきます。
ともすれば馬鹿げたようにも見えるこの事業を、3代にわたり追い続けなければならない宿命を背負わされた水野氏自身の哲学・生き方に焦点を当て、なぜ埋蔵金を掘り続けるのか? そして発掘することにどういう意味があるのか? というテーマを解き明かしていく、エンターテインメント・ドキュメンタリー作品です。
***********以上公式Webサイトから***********
あまりに有名な赤城の“徳川埋蔵金”だが、映画というカタチで記録されたことで、誰もが埋蔵金探索のひとつの典型的なケースを身近に知ることが出来るようになったといえる。
本来、埋蔵金探しは人知れず行われてきている。発見の可能性が高ければ高いほど、より人に知られずに、だ。その意味で、三代に渡って埋蔵金探索を続ける水野さんの例はあまりに“異例”といえるだろう。水野さんご自身による数冊の著作物や、例の糸井重里氏らによるTV番組プロジェクトなどでも大々的に公開、紹介されてきた。
ただ、そうして外部に漏れ出た多くの情報をもってしても、それはその時、その場所で起きた事象という一断片でしかない。人に知れようが、知れずともが、肝心なのは実際に埋蔵金を見つけ出すことで、現実にはそれこそ探索者の数だけ物語が展開されており、様々な人生を今現在も描き続けているということを付け加えさせていただこう。
なにはともあれ貴重な映画、多くの方に見ていただけることを期待したい。
ちなみに監督の阿部さん同様に、水野さんの家業の看板制作と埋蔵金掘りを手伝える方を若干名募集しているそうだ(2006年10月上旬現在)。阿部さんのように住み込みで看板制作を手伝いながら、埋蔵金探しにも協力することができるという。ただし給料は“ボランティア”で、とのことですので悪しからず。
もともと埋蔵金探索では協力部隊は“顎足は自前”が原則。掘り当てられれば分け前に与れるのは事前の相談次第ですが…。
--2006年10月3日
“木簡”とともに発見された埋蔵銭11万枚
- 5月19日付けで多くのニュースサイトが競って報道していたのでご存じの方も多いと思うが、
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福井県の寺の裏山から11万枚あまりの銅銭が詰まった大甕が発見された。
ニュースを見逃した方に概要をお伝えすると…、
『福井市田ノ谷町の大安寺で、甕に入った古銭約11万5千枚が発見された。同時に「明應九年」(1500年)と書かれた“木簡”も発見された。
福井県文化財保護センターの発表によると、寺の裏山の猪よけの柵を直しにきていた檀家の男性達が、偶然に斜面から甕の口がのぞいているのに気づき発見したもの。
甕は口径が約50センチ、高さが約70センチの甕で、中に入っていた銅銭は“永楽通宝”をはじめ“元豊通宝”、“皇宋通宝”など中世に国内で流通していた50種以上で、約100枚ずつ藁でくくられた状態で詰められていた古銭は現在の貨幣価値で計約700万円という』。
以上概要だ。5月19日付けで一斉に報道されたのでホットニュースかと思ってしまった方もいるかも知れないが、発見自体は4月の12日のこと。発見後、福井市の文化財保護センターで詳細な調査が行われ、ほぼ全容が判明したということでこの時期に正式発表となったというもの。
この埋蔵銭の発見で注目される点は2つ。まずはその量の多さだ。福井県内で埋蔵銭が発見された例としては越前市森久町の水田から発見された約3万3千枚や一乗谷の屋敷跡からの約3万枚などがあるが、これらを軽く上回り県内では過去最多とか。
ただ上には上で、大量の埋蔵銭の出土例が多い東日本では、北海道函館市での約37万枚、石川県小松市の約28万枚、新潟県湯沢町の約27万枚などと桁違いに多い。これらのケースで「約」としているのは銅銭の場合長期にわたる地中環境で錆びつき固着“銅塊”となってしまっていることが多いからだ。今回の場合は保存状態が良く、正確な枚数も出ているはず(この時点で全国で12番目とか)。
それはともかく、もう一つの注目点の方がより重要だろう。それは銅銭と同時に“木簡”が発見されたということ。その“木簡”には「明應九(1500)年七月吉日」という日付と埋めた人物の名前と思われる文字、花押があったという(文字はまだ判別できていないようだ)。このように埋蔵された年代が正確に判明している例は極めて少なく、貴重な資料の発見といえる。ちなみにこの“木簡”から埋蔵されたのは、現在の大安禅寺が建立される以前、当地にあったといわれる田谷寺(泰澄が開いた密教寺)が信長により焼失させられる70年余り前のこと。
埋蔵理由に関しては「こうした埋蔵銭には、当時、寺が金融機関の役割を果たしていたことに伴う“備蓄銭”としての可能性や、祈願目的で埋めた“埋納銭”の可能性があり、現状では断定できない」(福井市文化財保護センター)とか。いずれにせよ埋蔵年月日が正確に判明したことで古銭の研究家には良質な資料ができたことだろう。
--2006年5月19日
毛利家ゆかりの“黄金茶碗”が発見されたという。
- 3月21日の朝日放送系のTV番組“スーパーモーニング”の中で
-
紹介されていたというからご存じの方も多いだろう。“発見”に至った経緯を一番詳しく紹介していたと思われる朝日新聞の記事で見てみると、
--以下2006年3月21日朝日新聞朝刊社会面--
『毛利家ゆかりの「黄金茶碗」発見
長州藩主の毛利家ゆかりの黄金茶碗が、奈良市水門町の寧楽美術館に保管されていることがわかった。幕末から明治維新の動乱期に多額の借金を抱えた毛利家が、その返済軽減に協力してくれた大阪の豪商・広岡久右衛門に褒美として贈ったものという。
同館は23日~26日に特別展示する。
茶碗は直径12.6センチ、高さ7.5センチ、重さ役300グラムで、木の芯に純金が貼り付けてある。同館設立者の故中村準策氏が昭和初期に広岡家から購入。これまで公開せずに保管してきた。
同館は今年2月、大阪市史料調査会の野高宏之氏らに調査を依頼。茶碗の箱のふたなどに「明治元(1868)年11月、借金の交渉にあたって毛利公が広岡久右衛門に贈るように言われた」と記され、毛利家に伝わる「長州献上拝領帳」にも同様の記録があった。
野高氏によると、長州藩は当時、幕府軍との戦いで財政が悪化し、藩主の毛利敬親が借金をしていた商人らに利子軽減や返済期日延期を求めた。毛利家と懇意だった広岡久右衛門がその交渉役を引き受けたという』
まあ、この朝日新聞の記事をはじめ多くの報道の内容から判明するのは“発見”と言うよりは“初公開”というべき内容のニュースだったということ。ただ、こういったある意味“埋もれた”文化財なりお宝が広く一般に公開されるのは嬉しいことで、秘蔵されてごくごく少数の人間しか実物を見ることが出来なくなったり、良くあるケースでは“学者”の方々の“専有物”的な扱いになってしまわなかった事を素直に喜びたいと思う。今後も定期的に公開していただきたい。
ちなみに毛利家の埋蔵金の伝承というのは意外に少ない。逆に毛利と対立した尼子氏の家臣、山中鹿介が永禄年間に尼子再興をめざして立ち上がったが、毛利との闘いで無念にも敗走、その時に大根山山中に軍資金を埋蔵したという能義郡広瀬町の“白南天の元の埋蔵金”や、これまた毛利勢に攻められた銀山城の武田信実が落城に際して埋めたという広島市安佐南区の“金の茶釜伝説”などなど毛利に反旗を翻した側の埋蔵金伝説のみが多く残っている。ちなみにこちらも目印は“白南天”とか。
しっかり者のイメージの強い毛利家には埋蔵金などという“夢物語”は似合わないと言うことか。はたまた、戦国時代から幕末まで生き残った勝ち組には“伝説”として後世に残るような逸話が出来る機会がなかったのか…。
それはともかく、黄金の茶碗自体は別に珍しいものではなく、戦国時代以降多くの名品が知られている。特に有名なのはまさに黄金のイメージにピッタリの人物、豊臣秀吉が残した黄金の茶碗「金天目」だろう。京都伏見の醍醐寺に伝来する、太閤が日々愛でたという黄金茶碗で、直径12.6センチ、高さ5.8センチ、今回の毛利家の黄金茶碗同様木の芯に金が貼ってある。
黄金の瓢箪の馬印や黄金の茶室、はたまた黄金の瓦など太閤の黄金好きはつとに有名だが、権力者ならば誰でも黄金の輝きを日々身近に眺めていたい、というのは変わらぬ事のようだ。
※展示された黄金茶碗の箱書きと添え書き文書
<箱書き>
『明治元年戊辰十一月
長州様御政府方
山形弥八殿・白根多助殿
御上坂。御銀談ニ付被為
下置候旨、御達
正饒 拝領之 』
<添え書き>
『一、黄金御茶碗一
広岡久右衛門
右
御意、数年来御用向
被仰掛候度々尖ニ
遂、其節
御太慶被思召候。猶又
此度難題之儀被仰
聞候付而ハ、別而出精
御為能様可申談候。
依之格別之筋を以
一御書(前書カ)通拝領被
仰付候事。 』
“山下財宝”発掘スポンサー募集
- フィリピンで埋蔵金発掘事業に携わる方から、スポンサーを募集する呼びかけが届きました。
-
国内の埋蔵金をテリトリーとする当Webサイトの守備範囲外ではありますが、興味のある方にご参考までに。
その呼びかけとは…、以下原文のままでご紹介します。
******************************
『スポンサーを募集します』
私は、フィリピンで“山下財宝”を発掘している者です。現在発掘中の現場は計六ヵ所にのぼります。今年一月に、発掘資金の調達のため帰国しました。
帰国直前、私の現場に一人の現地人が訪ねてきました。その人は朝鮮人のおじいさんを持つという人で、そのおじいさんは元日本軍の軍人と一緒に埋蔵に携わった方だといいます。かつて発掘を行ったこともあったのですが、その時は地震に遭い半ばまで掘った穴が埋まってしまったそうです。その後、穴の上には家が建ってしまいずっとそのままになってましたが、最近発掘を思い立ち、その家の移転費用と発掘そのものの資金を目当てに知人を頼って私のところに来たそうです。
メタルボックスで十六箱、一箱三十本、計四百八十本、一本が二十五キロですから十二トンの埋蔵量だったそうです。これ以上の詳しい話はここでは明かせませんが、今度私のスタッフ二名が現地に行って調査検討する予定です。
今回スポンサーを募集する現場は二ヵ所で、一ヵ所はユンボを導入して発掘中です。機械による作業である程度の目安が付いたところで、その後マンパワーで横穴に移ります。もう一ヵ所は、マンパワーで発掘している現場で、現地人十五名が現在作業に当たっています。この現場からはほとんど毎日のように、皿などの陶器の欠片や人骨、アスファルトの固まりなど物証が出てきております。
この二ヵ所のスポンサーをそれぞれ募集します。私は募集するスポンサーは一ヵ所一名様と決めております。これは、発掘時の権利を確定するためで、他の方々が行っているような複数のスポンサーによる出資では発掘後利権争いになる可能性が高いことと、ハイリターンが望めないという点から決定させていただいております。この条件でも可能な方に協力をいただきたいと思います。
大型機械を購入、発掘に機動力を導入したことでこちらの運営費用も大幅に増えたことなどからも新たな資金が入用となりスポンサーを募集することにいたしました。詳しい内容につきましては事の性格上、直接お会いしてご説明したいと思います。
◇連絡先:03(XXXX)XXXX ジェネラル山下
(番号はいたずら電話等の対策のためサイト管理者が伏せました)
******************************
以上の内容の文面です。当Webサイトとこの方とは一切の利害関係はありませんし、また法的な責任関係もございません。その点は念のため特にお断りしておきます。
ただ、これを読んでいただき興味を持たれた方は当Webサイト宛にメールでご連絡いただければ、そのまま転送させていただきます(日本の方です。秘密厳守いたします)。こういった内容の呼びかけをする場が無くて困っている方に少しでもお役に立てれば、という判断から掲載致しました。全ての判断、決断はご自身の責任にてお願い致します。(2004年2月3日)
「“金の小判ちゃん”がつまった千両箱」登場
- 群馬県の株式会社コスモスという会社から楽しいお年賀が届きました。
-
なんと送られてきたのは“千両箱”でした。といっても写真でご覧の通り、
お菓子なのです。「縁起の良い、景気の回復と幸福の達人“景気回復 金の
小判ちゃん”」というお菓子だそうです。
千両箱の中に入った“小判”ですから当然ながら小判の型をしていました。
しかし、こだわりはそれで終わりじゃなく、パッケージを破ると小判のお菓子の上に
はなんと本物の金粉が散らされている!というまさに楽しい気分とありがたみに
包まれたお菓子だったのです。
そして、ここからが“皆様、特にご注目!”なのですが、パッケージに入っていた
説明文に見慣れたお顔が。そう、水野智之さんが「小判ちゃんにまつわる物語」として
徳川埋蔵金の解説をしているのです。「水野さんが教える埋蔵方法」3ヵ条もあったり
で、なかなか注目でしょう。ただの小判の形をしたお菓子というだけなら、おいしく
いただいておしまい(!?)だったのでしょうが……。
楽しいコーヒー・ブレークでした。ありがとうございました。
おなじみ、水野智之さん。『徳川埋蔵金の謎は九十%は解明した。あとは発掘されたら
残りの十%の謎が解明されるでしょう』と。
「旧日本軍の財宝」伝説
- アジアの新聞特派員にとっては、なんだかネタに困ったときの“定番”
-
となっている感もあった「旧日本軍の財宝」記事。このところご無沙汰で、久々に目にしたのでこちらも久々に取り上げてみた。
その記事とは2003年10月15日付けの朝日新聞朝刊に載ったコラム風コーナーの“特派員メモ”。シドニーから、となっていた。
以下、紙面より。
『旧日本軍の財宝
浮かんでは消え、消えてはまたぞろ浮上する。「日本軍の財宝」伝説である。
パプアニューギニアの離島で最近、「旧日本軍が隠した大量の金塊が見つかった」という話が持ち上がった。財政難に苦しむ政府は「本当ならラッキー」と調査隊を送り込み、地元は「よそ者には渡さん、村で山分けだ」といきり立つ。てんやわんやだ。
現地の事情通は「またですか」と冷ややかだが、ひょうたんから駒もあるから、はなからバカにはできないけれど、この種の話には「カーゴ・カルト(積み荷崇拝)」が関係しているのかもしれない。
かつて西欧による植民地支配を受けたメラネシアなどには、カーゴは神々がもたらす「外来の富」であり、白人が豊かなのは、そのカーゴを途中で横取りしているからだとの思いが広まった。しかし、神に祈り、熱い思いで待っていれば、いつか必ずカーゴが届けられる-。
カーゴが「日本軍」と結びつくのは、この一帯が太平洋戦争の激戦地となり、人々の記憶に、西欧植民地勢力の来島と同じくらいの衝撃が刻み込まれたからではないのか。そう言えば、フィリピンでも旧日本軍の「ヤマシタ財宝」伝説が浮かんでは消え、消えては浮かんで、何十年にもなるなぁ。 (大野拓司)』
以上、紙面から。
最近の“旧日本軍の財宝”の話題として目立ったのは、21世紀の幕開けとともに伝わってきたタイ西部のカンチャナブリ県での「ニセ国債」事件。山中の洞窟に旧日本軍の財宝らしきものが、ということでタクシン首相も駆けつけた、という大騒動が記憶に新しい。
現場はミャンマー国境付近で有名なクワイ河鉄橋にも近く場所的にも“山下財宝”にぴったり。で、首相まで巻き込んだ“事件”だけに米国企業の探査衛星まで導入する盛り上がりだったとか。ただ、発見したのが金塊ではなく実はアメリカが金との交換を約束する兌換券や債権の類で250億ドルあまり。ま、それでも“本物”だったら国家財政を潤してくれ万々歳だったのだが、なんと真っ赤な偽物。またまた“山下財宝”のデマ説を勢い付けてしまった。
1995年のフィリピンのルソン島での“旧日本軍の2トンのプラチナ”事件もフィリピン法務省と国家捜査局までを巻き込んだ末に「実は鉄でした」というお定まりの結果となっている。
今回の記事で新しいのは“カーゴ・カルト”というキーワード。この“カーゴ・カルト”というのは、記事中にもあるとおり主にメラネシアで信じられている“積み荷信仰”と呼ばれるもの。「いつの日にか祖先の乗った船が、財宝や食料、衣類などを満載して到来する」という千年王国運動にも関連する一種の宗教的認識がベースとなっている。20世紀の初頭、ヨーロッパからの侵略を受けることになったのもこの“カーゴ・カルト”の存在があったからとも言われているという。
確かに“騒動”にまで発展してしまうにはそういった背景もあるのだろうが、“旧日本軍の財宝”そのものには一切関係がないので念のため。“デマ説”や“詐欺行為”ばかりじゃなく、いよいよ“カルト”にまで結びつけられてしまうとは…。
歴史的事実の調査や現地探索をくり返し行っている方を身近に知るだけに、もういい加減にして欲しい、が実感。ただのデマや噂だけで国レベルの機関が動くわけがなく、それなりの背景があるので結局はだまされてしまう。その背景をすべて解き明かし“戦後”をきちっと終わらせることが肝心なのでは。
“純金の千両箱”を発売。
- 金貨や金地金の販売でおなじみ田中貴金属工業が2003年10月6日から“純金の千両箱”の発売を開始した。
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お値段は、金価格1g1,500円の相場で計算して約1億円! 限定2個の発売で本体はもちろん鍵や金具まで純度99.99%の純金製。重量は約36kg、サイズは幅32.1cm×奥行き19cm×高さ11cm。もちろん箱だけじゃなくて中身もびっしり詰まっているが、残念ながら(!?)小判じゃなくて1オンス金貨が500枚。1オンス=31.1035gとして15,551.75g。グラム当たり1,500円で計算すると23,327,625円。同様に千両箱の総重量約36kgを金価格に換算すると54,000,000円。じゃ残りは? 「加工代になります」(田中貴金属工業さん)。
10月7日現在でまだ購入者は現れていないそうだが、この2個が売り切れてしまっても「約3ヶ月お待ちいただければ同じ物をお作りいたします」(田中貴金属工業さん)とこのとなので、ご安心を!?
純金千両箱もいいけど隣の12.5kgの“ラージバー”の方がいい! という方も多いのでは!? ちなみにこちら18,750,000円。純金千両箱はこのラージバー3本を使って作られていることになるそうです。閑話休題でありました。
フィリピン在住の小野寺さんという方からWebサイト宛にご連絡を頂きました。
- その概要は以下に紹介するものです。
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『こんにちわ。突然お便り失礼いたします。
私はフィリピン在住の小野寺と申します。この度はスポンサー募集させて頂きたく思います。発掘場所はフィリピン国内で、現在すでに発掘済みです。実は私の友人の家族が金の採掘精製を職業にしております。私は金の知識が浅いので日本の方も十分に納得出来るお話と思い情報収集していたとこ
ろ、こちらのホームページが目につきご連絡いたしました。
現在、韓国とアメリカ人と取引をしておりますが支払いがルーズなために信頼できる日本人の購入者を希望しています。フィリピンは偽装金が多いときいておりますが、採掘から精製まで一貫しており、また精製後純度確認を致しますので間違いありません。金の出荷量ですが3ヶ月毎に約30キロになります。採掘担当者の話では10年ぐらいの期間は採掘可能です。スポンサーの件ですが当方資金不足の為!今回は1口300万円で募集いたします。また分配は約10年間3か月ごとにお支払いいたします』。
という内容です。
海外のフィリピンと『日本の埋蔵金』研究を目的とする当Webサイトの“守備範囲外”になりますが、すでに発掘済みという点が興味を引いたのでWebサイト上で紹介することに致しました。この世知辛いご時世、使い道に困った“夢のための資金”をふんだんにお持ちの方にご参考までに。
◇連絡先E-Mail◇
mark0088jp@hotmail.com
(ロボット検索によるアドレス自動収集防止策のため、全角文字にしております。実際のアドレスは半角です)
ちなみに当Webサイトはこの小野寺さんとは面識もなければ一切の利害上の関係もありません。問い合わせをする、協力を申し出る、スポンサーになる等、全てご自分の判断、責任の上で行動していただくことをあらためて確認させて頂きます。
奈良時代の銅の鋳造技術解明へ。
- 皆様、本年もよろしくお願いいたします。さて2003年はどんな年になるのでしょうか?
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わが国の経済のためにもここらで明るい話題の欲しいところ。頑張りましょう。ということで、昨年の暮れに届いたちょっと気になる話題をご紹介。
それは滋賀県の信楽町の横瀬で“鍛冶屋敷”の遺跡が発見されたというもの。奈良時代、仏像などを造っていた鋳造工房跡と見られている。ということは聖武天皇がすすめた仏像建立計画の一環を裏づける物証としても貴重な遺跡の発見といえるのだ。
発掘現場は“新宮神社遺跡発掘調査”が行われていた地点で、第二名神高速道路建設に伴って平成12年4月から実施されていた。これまでの調査により「奈良時代の掘立柱建物3棟などが出土、遺物調査から紫香楽宮が営まれた奈良時代中頃を中心とする時期の遺構と考えられる。出土する土器は、地元の近江では一般的に出土せず、平城京内でよくみられるもので、日常的な雑器(食器・煮炊具)からは平城京と非常に近い関係があったことがうかがわれる」(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会)などの点が判明していた。
今回、銅製品鋳造のための溶解炉や鋳込み遺構が約50mにわたって2列で整然と並んでいるのが発見された。その中には、一辺が4~5mの方形大型鋳込み遺構が2基発見され、1基は仏像の台座を鋳こんだと思われる平面六角形の鋳型で、もう1基は直径1.8m程度の梵鐘の中子がほぼ原型のままで出土したという。
この場所は聖武天皇が743年に着手したと言われる甲賀寺に近く、この鋳造工房で甲賀寺の仏像を造っていたと推定されるという。それでなくとも奈良時代の銅の鋳造技術は不明な部分が多く、今回の遺跡発掘でかなりの部分が解明出来るのでは期待される。
お寺の境内から小判38枚出土。誰のものに?
- 埼玉県内で光明寺といえば、
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秩父市の「向嶽山光明寺」や、比企郡吉見町にある「息障院光明寺」(こちらは平安末期に源義朝が平治の乱に敗れた後、頼朝の弟範頼が稚児僧として入り、後に領主となったという範頼の館跡でいまも「御所」と呼ばれて県の史跡指定されている)、はたまた文暦元年甲午3月18日開創と伝えられる秩父札所の2番納経所となっている「光明院」などが有名だが、こちらは長瀞の地にある「光明院」からのニュース(確かこちらの「光明院」は、樹齢約250年、樹高22m、目通り3mという大カヤの木で有名だったのでは?未確認情報ですが)。
2002年7月29日のこと、「排水管の埋設工事を依頼されて工事を行っていた左官屋さんが、まったく偶然に境内の地下から瓶に入った小判38枚を発見した」というのだ。小判の種類が判明していない(現在、埼玉県教育委員会で“鑑定中”とのこと。発表されている小判のサイズは縦6センチ、横3センチ、重さ13グラム)ため年代を限定できないが、瓶に入っていたこと、そして枚数的な面を考えれば、江戸時代ではごくごく当たり前といえた財産保全目的の埋蔵だ。それが何らかの理由で掘り出されることなく忘れ去られてしまったのだろう。
ちなみにこのニュースを報道した朝日新聞の7月30日付け朝刊によれば、「住職(53)は『昔の住職が後継者のために埋めたのだろう』と手元に残したい意向だが、埼玉県教委などの鑑査で文化財となれば、行政の保管に。住職は『先人の心意気もくんでほしい』」とのこと。
ちなみに文化財として“取り上げられ“てしまった場合、発見者には“報奨金”が入るだけってことに。この“報奨金”の算出がなかなか分かりにくくて、ま、「雀の涙」的に考えていただければ当たらずとも遠からず……というニースでした。
工事現場から小判をはじめ合計1295枚出土
- 2002年3月、富山県小矢部市の工事現場で、
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口径約30センチのかめが出土し、中から小判12枚をはじめ、硬貨合計1295枚がでてきたというニュースが入った。
出土した場所は、旧道の保全を目的に国土交通省が進める“歴史国道”整備事業の造成地で、同省が買収する約1年半前までは個人所有の竹やぶだった所という。
富山県小矢部市といえばあの“桜町遺跡”で有名で、こちらも1988年に、国道8号バイパスの建設工事に伴い発見されたという由縁をもっている。今から約12000年前の縄文時代草創期から約2300年前の縄文時代晩期までの、縄文時代全期間にわたる遺跡として一躍注目を集めるようになった遺跡だ。それまで米作りの技術とともに弥生時代に日本へ伝えられたと考えられていた高床式の建物が、じつは定説よりも2000年も前の縄文時代に、すでに存在していたことを証明することになったのは記憶に新しいのでは。
今回の“出土品”の中には明治初期の刻印のある金貨も含まれていたそうで、その点では文化財的な意味は薄く、旧家の隠し財産、私的な埋蔵物と判断していいのではないだろうか。また、国士交通省としても「埋蔵物の帰属が国となるかどうか判断できず」ということで、小矢部暑に届け出ており、今後同署が鑑定と所有権の特定をすることになっている。
市としては「所有者が判明すれば、譲り受けるか借りて公開したい」とのこと。
ちなみにここで“歴史国道”整備事業というのをざっと紹介しておくと、『かつて歴史上重要な幹線道路として利用され、そのなかでも特に重要な歴史的・文化的価値を有する道路を“歴史国道”と称し、その道路を対象として、保存、復元および活用を図り、あわせて地域からの情報発信を行うことにより歴史文化を軸とした地域づくりと活性化、地域の歴史文化と触れ合うことのできる魅力的な空間づくり、道と地域の歴史文化の継承などを目的として実施される事業です』というもの。
今回の小矢部市の工事もこの一環として行われていたもので、小矢部市桜町~石川県津幡町竹橋の間約12.8キロの旧北陸道はすでに整備が進み、遊歩道としてよみがえっている。歴史ロマンを感じさせる市民参加のイベント等も行われているので足を伸ばしてみてはいかがだろう。
興福寺、中金堂の復元現場から金の薄板や水晶玉!
- 不景気風が吹きまくっておりますが、皆様研究の進捗状況はいかがでしょうか?
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なかなか時間と予算がとれなくて……。いずこも同じなんとやら、なのではないでしょうか。
それはともかく、ちょっと気になったニュースを。それは奈良の興福寺、中金堂の復元現場から金の薄板や水晶玉などの“鎮壇具”が発見されたというものです。
埋蔵金からはちょっと外れますが、埋蔵文化財ということで取り上げてみました。2002年1月31日付けの朝日新聞朝刊に載ったニュースで概要を紹介すると、
『金板や水晶玉 宝物300点出土 奈良の興福寺
奈良・興福寺の中金堂(ルビ:ちゅうこんどう)を創建当時の姿に復元するため、発掘調査していた奈良文化財研究所と興福寺は30日、仏像を安置した須弥壇(ルビ:しゅみだん)の下から金や水晶玉などの宝物約300点が出土したと発表した。
奈良時代初め(8世紀前半)に興福寺を創建した際、その土地の神がたたりをなさないよう鎮めるために埋めた「鎮壇具(ちんだんぐ)」の一部と見られる。』(以上朝日新聞紙面より)
興福寺といえば、飛鳥時代の「厩坂寺」、さらにさかのぼって天智朝の山背国「山階寺」が起源という法相宗の大本山としておなじみだろう。『山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられたのです。』(興福寺Webサイトより)
で、この興福寺にある「中金堂」の復元現場から金の薄板や水晶玉などの埋宝が出現したというわけだ。「中金堂」自体の由来も興福寺Webサイトによると『和銅3年(710)創建の中金堂は、享保2年(1717)に焼失後、文政2年(1819)に仮堂として再建され、赤堂として親しまれてきました。』
その「中金堂」の復元工事は『仮堂再建以来150年以上経過し、使用材がマツ材であることや、瓦が割れて雨漏りし老朽化がすすみましたので、昭和50年(1975)に講堂跡に仮金堂を建立し、本尊の釈迦如来像、薬王・薬上菩薩像、四天王像を移座申し上げて参りました。現中金堂内陣 平成3年(1991)から各界の学識経験者や文化庁・奈良県・奈良市のご指導を仰ぎながら、中金堂院を中心とした興福寺境内の整備に関して、種々検討してきました。その結果、平成10年(1998)から中門・回廊跡の発掘調査を開始し、12年から現中金堂解体、基壇の発掘調査を行い、その結果に基づいて創建当初の中金堂設計を行い、来る平成22年(2010)の興福寺創建1300年という記念すべき年の再建に向けて、邁進することになりました。』とのこと。
(興福寺Webサイト:http://www.kohfukuji.com/kohfukuji/index.html)
このところ埋蔵金関係のニュースが無くて寂しい限り。ま、それほどちょくちょくある、ってもんでもありませんが……2002年もよろしくお願いいたします。
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